スポーツ考

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地元の話題で恐縮ながら、西本聖氏が講演に来るというポスターを見た!

と、唐突に名前を挙げたが、どれほどの方がご存じだろうか。
かつて読売巨人軍の投手だった。テスト生で入団し、大きく曲がるシュートを武器に打たせて取るピッチングで、天才・江川卓氏と並び称されるエースに上りつめた。努力の人だ。
闘志にあふれ、逆境に強かった。また、投球フォームが美しかった。
当時、私は大ファンだった。
彼の活躍が載った新聞は切り抜き、グッズを買い、その頃使っていたペンネームにご子息の名前を拝借していた。トレードに出されてから巨人の応援を止めた。それくらい、好きだった。
懐かしい...。
講演、聞きに行きたいなあ。

しかし、あれほど夢中だった野球も今はさっぱり見ない。
否、スポーツを見ていないのだ。
いつからだろう、スポーツにあまり面白味を感じなくなってしまった。

相撲も寺尾関が引退してから全く見なくなったなあ。千代の富士や、舞の海・智ノ花・旭道山たち小兵力士が活躍していた頃は、大相撲ダイジェストも必ず見たし、相撲雑誌を買うことだってあったのに。まして最近の相撲界のごたごたに至っては語る気も起きない。
ただ、一連の騒動に関する様々な意見を眺めていて、ちょっと気になることがあった。
相撲が国技かどうかは見解が分かれるようだが、少なくとも日本に伝わるもっとも古い競技(元は神事)のひとつであることは確かだろう。これを単純に「スポーツ」ととらえるか否かで意見が違ってくる。
いや、世間の見方などはいい。力士もいろんな個性があって当然。要は、相撲協会や親方集が、これからの相撲をどうしていきたいのか。それは、今の対応の積み重ねにかかっている。そのつもりがあろうとなかろうと。

「スポーツ」の波に押されているといえば、柔道もそうだ。
青い柔道着が物議を醸し、パワー柔道に苦杯を舐め、不可解な判定で涙を呑むなど、国際化のあおりを食らって久しい。パワーで勝つと公言してはばからない外国選手も少なくないし。
勝敗に、その伝統文化や精神性は関係がない。競技ルールがあるのみ。

ナショナリズムを振りかざすつもりは毛頭ない。柔道であれ相撲であれ、それを受け継いでくれるのが外国人でもいい。むろん日本人から廃れてほしくはないけど。
日本人だって外国のスポーツで活躍している。人気が衰えたとはいえ野球も国民的スポーツだ。ホームランや盗塁の世界記録を塗り替え、大リーグで力を発揮する選手も増えた。(個人的には特に野茂とイチローを応援している。)
その野球も、「ベースボールと野球は違う」と言われる。本場アメリカから見れば、同様に忸怩たる想いがあるのかもしれない。
ルールは絶対だ。けど、ルールだけがそのすべてではないよね。

時代は否応なく移り変わってゆく。武人(もののふ)の「術(すべ)」だった武術は、明治以降に「道」として整えられてきた。
柔術が柔道へと変わったように、柔道もJUDOに変わってしまうんだろうか。
相撲もSUMOになってしまうんだろうか。
それが、時代の必然なんだろうか。

日本語の中にわけのわからないアルファベットがどんどん増えている。
JUDOやSUMOがそれに加わらないことを祈りたい。



ところで、こう書いてきて思い当たった。
どうやら私は、天才肌のエリートよりも、ストイックで泥臭い努力型を好む傾向があるんだな。
才能や環境に恵まれなくても、望むものを何が何でも取りに行く姿勢や心意気が好きなんだろう。
ルパンは大好きだけど、ルパンスキーを名乗れるまでのめり込めないのは、彼が並はずれた天才ゆえの減点かもしれない。もちろん「何が何でも取(盗)る」ってところが大いなる魅力なんだけど。
ストイックというのは、美学や信念と言い換えてもいい。
...なるほど、新選組に惹かれるわけだ。

(あれ?スポーツと関係ないオチになっちまったわ。)

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