平等って?

| , (新選組!) | コメント(2)

受験シーズンである。
受験の功罪については書くまでもなかろうが、当事者にとって一大事であることは確かだ。子にその苦労をさせまいと、エスカレーター式の学校が人気だとも聞く。

どんなに勉強しても、或いは普段の成績が良くても、試験当日のアクシデントで涙を呑むこともある。
不公平だろう、と昔は思った。
入試の結果より、積み重ねた成績や内申を重視してくれれば楽なのにと思った。
しかし、最近は違うことを考えている。
改善の余地はあるにせよ、この方法、意外と公平なのかもしれないと。

暴論を承知で書いてみる。(今更か)
元先生のYさんには叱られるかもしれないけど、まあいろんな考え方があるってことでひとつ。

受験とはもともと「振り落とす」ために行われる。その必要がなければ希望者全員を受け入れればいいのだから。
なんらかの基準を設けて、振り落とさなきゃならない。
試験は確かに運不運に左右される。
その代わり、ダメだったときに「ツイてなかった」という慰め(逃げ道)がある。
人格などで選考されて落とされちゃったら立ち直れない。
猛勉強して成績を上げても、それまでの低成績が尾を引くのではやりきれない。
アクシデントが起こる可能性は誰にでもある。
だったら皆で同じ土俵にあがって、恨みっこなしの一発勝負もいいんじゃない?
なんだか博徒みたいな発言だが、人生は博打の連続だ。ン十年生きてきた実感である。
それも受験のように勝負時が決まっている場合は稀で、多くは自分で勝負時を見出すか、突然否応なく降りかかってくるものだ。
こんな人生送ってんのは私だけかもしれないが…。

悲劇のもとは受験そのものではなく、受験がすべてだと思ってしまうことじゃないだろうか。
通過点のひとつでしかないものが、人生のすべてであるかのような勘違い。
ま、私がエリート好きじゃないから安易に一刀両断できるのかもしれないけどね。

それに、どんなに子供を庇護したところで、実社会は競争社会だ。
皆を平等に…と、競争や順位付けを避ける教育現場もあるようだけど、実社会に対して免疫をつける機会を失わせているだけじゃないのかな。
また、競争がなければ人(や社会)が伸びないことも、残念だが歴史が証明している。
肝心なのは勝敗や優劣じゃない。
それによってダメになってしまわないことだ。
自分にとって何が大切なのかを考えて見極めることだ。と、思う。

だって人は生まれながらにして平等なんかじゃない。
生まれる場所や時間が違うだけで、食べるものがなかったり戦火の中に放り込まれたりするんだから。
ハンデを背負って生を受ける人だっている。

それでも、万物は平等なのだ。
お天道様は対象物によって降りそそぐ光の量を変えたりしない。それが善人でも悪人でも。
時間の流れだって違ったりしない。
それは、公平だろうか、不公平だろうか。
情が介入しないことは確かである。

平等って難しい。
いきなり手前味噌な話題にうつるけど、新選組の内部粛正が厳しいって言われるよね。
それは否定しない。
ただあの時代、内輪もめの末の粛正はどこにでもあった。
新選組の粛正が目立つのは、彼らが「同士として平等」だったからだ。
組織として序列はある。でも、身分の差はない。
幕府や藩には殿様をはじめ身分や階級による差がある。無体な処分でも「上意」という大儀の下に行われる。奇兵隊でさえ長州藩士と庶民は平等にならなかった。
しかし新選組では平等である。それゆえに有無をいわせぬ権力が存在しない。だから「法度」という大義名分が必要だった。
そして平等である以上、人徳や能力が惜しまれても処分を違えるわけにいかない。「死なせたくない人」が出るってことは、「死んでいい人」が出ることだ。
非情と言われても、不公平だと思われることの方が、きっと新選組という当時特殊な組織にとっては危うかった。「法度」を「有無をいわせぬ権力」の代わりにするには、筋が通っていなければならない。だったらお天道様と同じ平等を選ぶしかあるまい。(実情はもっと複雑だったろうし、正解のない考察だが。)
大岡裁きは越前様だから皆が平伏する。黄門様の印籠もしかり。美談も平等の下では成立しない。

今の日本は、世界の中でかなり平等な国だと思う。
少なくとも多くの人が「平等であるはずだ」と思えるほどには。
でも、人の心の内はどうだろう。何かランクをつけたがる傾向を感じる。ブランド志向、エリート意識。山の手、田園調布、シロガネーゼ。勝ち組、負け組、……。
人は自分より下にあるものを見いださないと不安になる。――そんなことをどこかで聞いた気がする。

平等って、難しい。

コメント(2)

| コメントを送る

こっちでも、どもっ

なになにぃ、受験は一発勝負でよいとな。博打同然で挑めってか!
やぁ、ごもっとも。そのとおりでございますとも(笑)。
ってか、子ども本人も親も、センセもそれは了解しているような気がするな。「本当に」かどうかは、微妙だけれども。

何年か前に、試験会場へ行くための電車を乗り違えて、特急列車を好意で臨時停車してもらって…って話があったじゃないですか。ありゃいい話だったんだけど、そのころセンセだったわたしは、「この子…受験はうまく行かなかったかもなぁ」と思ったもんですわ。朝一番にそんな騒動に会ってたら、落ち着いて問題文なんて読めんだろう…と。
しかし、この話がイイ話なのは、この子が受験に成功しようが失敗しようが、変わらないんだよね。先々、この子自身がそう思えたら、さらにすてきな話だけどね。

で、この美談が成立するのは、受験生に気づいた乗客らが車掌に直談判してくれたり、車掌がダイヤ変更を上にねじ込んでくれたという…熱い熱い「情」のお陰。
その後「平等」の前にバッサリやられたかどうかは…知らない方がよさそうだわ。

「平等」についての考察は、わたしのアカサタナな頭には荷が重過ぎるので適当なところで引き上げて…ヾ(--;)

実はわたし、「すべての受験はなくしちまえ」と思っている口。入る所を狭くするんじゃなくって、出るところを絞れよ!と思ってる。
小学校でも当たり前に落第させればいいのに、とさえ。何かを習得するのには絶対に個人差があるんだから、差があるのが当たり前になって、国民総「落第万歳」(笑)。
そうしたら、勉強すること自体の喜びを、小学校卒業のときには、既に経験できていると思うんだけどなぁ。

…と、これはまたしてもわたしの妄想でした。コメントになってなくてゴメン~

おー、コメントありがとね。こっちもレスが遅くなり申し訳ない。
特急の臨時停車、覚えてますよ。イイ話だなあとしみじみすると同時に、思い切ったことできたもんだなあと感じましたわ。関係者は始末書モノだったかもなーというのはまあいいとして、同じ列車に乗った人の中には大事な商談に遅れた人や、親の危篤で急いでた人がいたかもしれない。同じように列車を間違えて受験に遅れた子だって他にいるだろうし、その都度列車を止めてたらどれくらい影響が出るんだろうかとか……まぁ美談を台無しにすることも考えてしまうのが私の実にイヤなところです。
もちろん、このイイ話を否定するわけでは全くないんですよ。ひとつのことで喜ぶ人がいれば、その影で泣く人もいる。それが世の理っつーことで…。(ホント、ヤな奴だな私^^;)
ただね、その子にとって得難い体験だったのは事実だと思うし、その子の人生にとって(受験の正否はともかく)プラスの体験であってくれたらいいと心から願いますよ。さらに願わくばそのダイヤ変更に影響を受けたすべての人にとってもね。

「出るところを絞れよ!」―ホントその通り。「差があるのが当たり前」―全くもって同感。
「勉強すること自体の喜び」については、たぶんそれが本当にわかるのは社会に出てからかと思うけど、在学中の少しでも早い内にそれが経験できたら幸せだよね。

コメントを送ってください

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://k-kon.sakura.ne.jp/mt427/mt-tb.cgi/314