終焉

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近鉄というプロ野球チームが、好きだった。
ファン、というほどではない。一度も応援に行ったことはなく、グッズのひとつ持つわけでもない。

豪快で、時にハチャメチャでさえある反面、伝説的な悲劇も多い、ドラマチックなチームだった。
55年の歴史の中で4度のリーグ優勝を果たすも、いずれも日本一に届いていない。1979年の日本シリーズ第7戦では、1点を追う9回二死満塁、逆転Vのチャンスを「江夏の21球」に阻まれた。1989年は3連勝後の4連敗で、やはり目前で日本一を逃した。

最も印象に残っているのは、1988年10月19日。今でも「10・19」と語り継がれるダブルヘッダーだ。2試合とも勝てばリーグ優勝、片方でも引き分けたら2位確定。急遽放映したTVの実況中継に釘付けになったのを覚えている。
ダブルヘッダーの第一試合に延長はない。同点で迎えた9回二死、既に引退を決めていた梨田選手(現監督)が代打で出場。土壇場で決勝打を放ち、次の試合に望みを繋いだ。
第二試合、やはり同点での9回裏。判定を巡る相手監督の猛抗議で10分近く試合が中断した。延長戦の試合時間に制限があるため、抗議中断の間、近鉄ファンでなくともじりじりする思いだった。結局は時間切れで延長11回に入れず、引き分けに泣いた。
この日。代打陣の劇的な活躍や、エース阿波野の細腕が連投に力尽きた姿も見るものを揺さぶった。が、何より「時間に負けた」ことが無念さを煽った。あの中断が無くて、あと一回の攻撃があったなら、と。
しかしその悔しさをバネに翌年のリーグを制した。優勝戦線から何度も遠ざかりながらも踏ん張った。敵地での決戦となった前年と違い、当時の本拠地・藤井寺で決めた。優勝した試合は7回からビデオに録ってある。(スポーツニュースまでことごとく録画してあった/笑)
優勝を決める1週間ほど前に、36年間オーナーを務めた佐伯氏が亡くなっていた。近鉄球団を愛し、名物オーナーと言われた人だった。

今回の一連の騒動については、語り始めるとキリがないので置いておく。
選手やファンの無念は言うまでもないが、立場上言動を控えざるを得なかった監督・コーチ陣も辛かったろう。梨田監督も、片腕の大石コーチも、近鉄一筋で選手生活を送った人である。
本拠地で行われた最終戦。梨田監督は二軍にいたベテランたちを昇格させて試合に出した。何としても勝って締めくくりたい試合に次々とベテランを起用した。小刻みな継投でマウンドに登った7人のうち、5人が30代。現在の若いエースでなく、かつてのエースと守護神を使った。
選手も、応えた。往年の力を失った投手陣が西武打線を2点に抑えた。「いてまえ打線」爆発とはいかなくても、名残を惜しむような延長戦の末、ベテラン選手がサヨナラ打を放った。
歓喜と涙の、ドラマチックな幕切れ。最後まで近鉄らしく魅せてくれた。
わずか3年前にリーグの覇者となったチーム。2年連続最下位から脱しての、やはり劇的な優勝だった。その喜びが、結果的に球団の寿命を縮めたのなら、やりきれない。
買収されたなら「近鉄時代」を引き継ぐことが出来た。それさえ叶わず、終に日本一の座はつかめぬまま。球史に過去として名が残るのみだ。

1989年のリーグ優勝を録画したテープを発掘した。それを見ながら書いている。
保存状態が悪く、色あせて音声も途切れがちだが、懐かしいシーンが、懐かしい顔が、次々と映し出される。後に大リーグへ行った吉井投手がブルペンで肩を慣らし、今年5月に40歳で急逝した鈴木貴久選手がファインプレーで球場を沸かせる。
あれから15年。
好きなチームが消滅したとて、日常生活に何ひとつ影響などない。束の間の感傷ではあるけれど。

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