会津の旅-新選組と土方さんのこと

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その地を訪れて以来、会津における新選組のことが気になって仕方がない。
新選組が会津に逗留した期間はおよそ半年。
勇さんを失ってから新選組の終焉までがほぼ1年と1ヶ月であることを思えば、その半分ほどの月日を会津で過ごしたことになる。が、土方さんはそのほとんどを戦傷の療養に費やしたし、新選組も前線で戦ったものの負け戦だから華々しい活躍は記されていない。そのためか小説などでは会津の描写が簡単に済ませられることも多い。
けれど、やはり土方さんと新選組にとって、会津という地は、とてつもなく大きな意味を持つのだと感じている。

 ※以下、素人なりに資料を調べて考察したつもりですが、無知な点や的外れな箇所もあるかと思います。お気づきのことなどございましたらご教授いただけると幸いです。

まずは、流山から蝦夷地へ向かうまでの土方さんと新選組の足跡を、記録から大まかに追ってみた。

 ※最初の日付は旧暦で()内は太陽暦。敬称略。
4/3(4/25):近藤勇が投降
4/4(4/25):土方歳三、勝海舟に会い勇の助命を乞う。他多くの隊士は会津へ向かう
4/11(5/3):江戸城無血開城。土方歳三、幕府脱走軍に合流し先鋒軍の参謀となる
4/19(5/11):土方歳三らの率いる先鋒軍が宇都宮城を落とす
4/23(5/15):宇都宮城が新政府軍に奪還される。土方歳三、足を負傷
4/25(5/17):近藤勇、板橋で斬首される
4/29(5/21):土方歳三、会津城下に到着して隊士たちと合流
閏4/5(5/26):斉藤一率いる新選組が白川方面へ出陣。※その後転戦を続ける
6/15(8/3):土方歳三、若松城へ登城
7/6(8/23):土方歳三、このころ戦線に復帰。※8/1までには新選組と合流
8/21(10/6):新選組を含めた会津軍、母成峠で敗退。斉藤一は本体とはぐれて翌日猪苗代城へ入る
8/22(10/7):土方歳三、元会津藩主・松平容保らとともに滝沢本陣に留まる。新選組は天寧寺へ退く
8/23(10/8):土方歳三、援軍要請のため元桑名藩主・松平定敬に同行して会津を出る。若松城が籠城戦に入る。新選組を含む旧幕府軍は塩川に転陣。土方歳三、米沢領大塩村にて大鳥圭介に新選組のことを頼む。
9/3(10/18):土方歳三、軍艦を率いて仙台入りしていた榎本武揚とともに仙台城での軍議に参加。同盟の総督に推されるも実現せず
9/5(10/20):新選組本体と別れていた斉藤一らが如来堂において襲撃され生死不明となる
9/9(10/24):新選組を含む旧幕府軍、小田付(喜多方)を発ち土湯村(福島市)へ向かう。※その後更に北上
9/13(10/28):新選組を含む旧幕府軍、仙台行きを決する。※翌14日に仙台入りし、19日に発つ
9/22(11/2):会津藩が降伏
10/9(11/22):土方歳三や新選組を含む旧幕府軍、蝦夷に向けて乗船を開始。※先陣が上陸したのは10/20(12/3)

流山のあと江戸入りした土方さんは、その後すぐに会津へ向かわず旧幕府軍と合流している。新選組を会津へ先発させた以上、勇さんがそうしたかったように援軍を連れて行こうとしたと思える。途中の要所を攻略していけば一石二鳥でもあり、実際、強引とも言える少人数で宇都宮城を落としている。しかし城はすぐに奪還され、土方さん自身も傷を負ってしまうのだが...。
負傷の身で会津入りした土方さんは、その後2ヶ月半の間、公式な記録には現れない。戦線に復帰するには更に20日を要した。
が、土方さんの心の内は、最も激しい葛藤に苛まれた期間だったろう。

ひとつは言うまでもなく、勇さんの斬首を知ったこと。
一縷の望みをかけて勧めた選択が、最悪の結果になってしまったのだ。しかも動けぬ身では他に気を散らすこともできない。どんなに前向きな人でも、こんな状況では思考が堂々巡りせざるを得ないだろう。また、総司の死(5/30(7/19))もこの時期に知った可能性が高い。何もできずに死なせてしまったと思うことだってあったかもしれない。

それから、新選組と会津藩の関係である。
甲州勝沼で敗れてから、新選組は会津を目指していた。永倉さんたちとは食い違いが生じて別れたものの、会津へ向かおうとした点はどちらも同じだった。ドラマではその後の土方さんに含みを持たせるため既に蝦夷地を意識した発言があったが、この時点では会津こそが新選組の最終目的地と考えていたと思える。京都で新選組を預かっていた会津藩に、誰より勇さんを信頼し評価してくれた容保公に、恩義を感じていないはずはない。
しかし、会津藩から新選組を見ればどうだろうか?
京都においても、その存在が会津藩のマイナスになると案じて新選組を快く思わない向きがあった。それでも京都に居た藩士たちは、戦となれば新選組ほど頼みになる存在はないと肌で知っている。が、会津の地では新選組はやはり余所者であり、むしろ会津を窮地に追い遣った元凶と疎ましく見られたかもしれない。新選組にとっては、培ってきた信頼が振り出しに戻った感じだろう。
そういったことは人間社会の常として大いにあり得る。だけでなく、私が会津に行った折に興味深いお話を伺った。それは土方さんが、会津で自分の居場所がない...と漏らしていたというのである。時期や状況が不明なので具体的な言及はできないけれど、会津のために尽くそうとしてままならなかった様子が感じられる言葉だ。

とすれば、土方さん(と新選組)は会津において、局長と会津藩という最大の目的かつ拠り所を失ったことになる。
仕えた幕府はとうに失っている。土方さんは勇さんの墓前で「俺たちはこれからどうすりゃいい...」と本当に呟いていたかもしれない。

戦線に復帰した土方さんは、記録によれば新選組と最前線を駆け回れたわけではなく、後方指揮官かつVIPの護衛という立場だったらしい。そして母成峠で惨敗した直後、定敬公に同行して会津を離れることになるのだが。
記録を眺めていて、意外だったことがある。
土方さんは会津を出るにあたり、新選組や斉藤一と接触できなかったようなのだ。斉藤さんが「会津を見捨てることはできない」と反対したという逸話は土方さんと対立したのかと思っていたが、二人が会えなかったなら旧幕府軍を率いる大鳥圭介か、それに従おうとする隊士仲間に向けた言葉だろうか。それ以前に土方さんと新選組の今後について話す機会があったのだろうか。
そののち斉藤さんたち13人の隊士は如来堂で襲撃を受け全滅した(と思われていた)。彼らは会津に残るために新選組と決別していたと言われる。が、島田さんらの日記には"戦闘の応援として一隊を派遣した"と記されており、この時点で決定的な分裂だったのか手元の資料からは判読できない(他にそれを裏付ける資料があるのかも)。いずれにしろ、この後の斉藤さんが会津藩と命運を共に生きたことには違いない。ただ、斉藤さんの生存を土方さんが知ることができたのかは不明である。

そして土方さんが会津を"見捨てた"のかどうかだが、私はそういうわけではないと感じている。
何故なら彼は容保公と共に居たのだ。其処から定敬公(容保公の実弟)に同行するのだから、容保公がそれを望んだと受け取れる。若松城はこのあと直ぐ籠城戦に突入する。実弟とはいえ桑名藩を背負う定敬公はこれ以上会津に留まれなかったのではなかろうか。その護衛としても、援軍を求める使者としても、"新選組副長"の名と実績はその任務に最も相応しかったに違いない。
籠城してしまうと、援軍が得られなければ(周囲の敵陣を突破できないため)城に入れなくなる。そのときは戻るなということも含めて、定敬公の護衛と後事を託されたと考えられないだろうか。
もしも勇さんだったらどうしただろう。此の地で討死にさせてくれと懇願したかもしれない。勇さんがそうするのなら土方さんも留まったように(私には)思える。しかし勇さんは亡く、それ故に土方さんは此の地で無為に果てるより、容保公の意を汲みつつ存分に戦う道を選んだのではなかろうか。
定敬公は蝦夷地へも渡るのだが、土方さんは桑名藩の恭順派家老と何度も面談し、公を説得して五稜郭が落ちる前に脱出させている。会津を去ったとはいえ容保公への義は貫いたと感じられるエピソードだ。

ただ、京都で誕生した新選組は会津の地で局長と共に眠っている――そんな気がする。
鳥羽伏見以降、甲州勝沼、流山と転機を重ねても、常に会津という目的と希望があった。其処を離れるとき、新選組は一度終わって新たなスタートを切ったのだ。目的も希望もなくひたすら闘い抜く道へと踏み出した。土方さんが"死に場所を求めた"と言われるのは"死にたい"とイコールではないだろう。降伏する気がない負け戦において、行き着くところは死しかないということだ。

会津での土方さんはほとんど戦地に立つことができなかった。
勇さんや総司の死を知り、負け続けている戦況を聞き、様々な葛藤の渦中にありながら、傷を負って身動きできぬ自分が悔しくてならなかったと思う。けれど、もしも土方さんが元気であったら会津で命を落としていた気がする。
勇さんの死の直前に負傷、しかも足である。無理をしたくてもできなかったろう。勇さんが土方さんをこの世に"足止め"したように感じてしまうのは、もちろん感傷に過ぎないけれど。

次は、慈母のように慕われたという土方さんの変化に触れてみたい

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