山南さんと土方さん-史実編

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これまでドラマにおける二人を考えてきたが、実在の人たちはどうだったのだろう?
山南さんが最初に試衛館を訪れた時期は不明のようだ。初めて記録に現れるのは文久元年(1861年)の新年稽古であるらしい。この年は8月に勇さんの四代目襲名野試合も行われ、どちらも土方さんとともに加わっている。(土方さんが入門したのは1851年とも伝わるが、神門帳の正式な記録は1859年とある)
二人にどのような交流があったのか、記録からはわからない。
山南さんの死についても謎が多い。

ただ、ドラマでは敢えて描かれなかった点が、ふたつある。
ひとつは、政治的立場や思想の相違による決裂だ。
新選組は池田屋事件を境にして、過激尊王攘夷派を敵とする佐幕の立場が鮮明になった。政治的矛盾(浪士組も元は尊皇攘夷)による意見の相違である。ドラマでは人間関係に焦点を絞るため、視聴者が感情移入できない政治的な面には深く突っ込まなかったのだと思う。が、実際は大きな原因のひとつであった可能性がある。
もうひとつは、山南さんの体調だ。
ドラマでは戦闘の第一線に出ていないだけのように描かれていたが、実際は死の1年ほど前から病気か怪我による身体の不調があったらしい。知り合いの見舞いさえ断っているから、よほど人に見せたくない姿だったのだろうか。それは戦闘で重傷を負ったのだとか、総司と同じ労咳を患ったとか、或いは精神的な病であったとか様々な説がある。

山南さんの脱走を伝える記録は、晩年の永倉さんが語った話による『新選組顛末記』のみであるともいう。切腹したことは、八木家の為三郎坊による後年の話や、伊東甲子太郎の弔歌の前書からも事実らしいが。(西本願寺の寺侍・西村兼文は抗議の自刃だと記している)
そしてこれらの記録から、山南さんが死に至った原因は、土方さんとの対立・確執というのが通説の主流だ。永倉さんは勇さんが疎んじたためだと責めている。他、新たに入隊した伊東甲子太郎と山南さんは意気投合し、二人で何事かを謀って脱走したが失敗したとの推論もある。
が、真相に迫る記録はほとんどないようだ。
むしろ、当事者は意図的に避けているようにさえ感じられる。
総司が多摩へ送った手紙には、「山南さんが先月死去したこと、ついでをもってちょっと申し上げ候」と軽く書き添えられており、死の7日後の日付が残る土方さんの手紙などはその死に全く触れていない。山南さんは何度も多摩へ出向いた人であるにも関わらず。そして、京都(壬生)では「温厚で親切」と伝わる山南さんのことが、多摩では話が残っていない。直筆の手紙も残っていない(写しは存在する)。小島鹿之助の著書にも、訳あって勇が切腹させたと書かれるのみ。後ろめたいことがあるなら正当化する記述があってもよさそうなのに、それもない。
この素っ気なさをどう解釈するか。
山南さんが"その程度"の軽い存在になっていたのか、それとも"簡単に説明できぬほど重たい事実"であったのか、或いは彼か自分たちに不名誉な何かを隠すために沈黙したのか...。いずれも成り立つように私には思えてしまう。

ドラマの影響は否めないが、私としては山南さんの死が"軽かった"とは考えにくい。心情的な理由だけでなく、彼の死によって新選組が揺らがなかったからだ。
局長に次ぐ総長の地位、試衛館からの古い仲間、隊士たちに慕われた人柄。葬儀では皆に惜しまれていたと為三郎も語っている。そんな人が切腹させられたとなると、普通なら、組織に与えるダメージは大きいのではなかろうか?
なのに、2週間後に屯所を移転し、1月後には土方さんが甲子太郎と斉藤を連れて江戸へ隊士募集に向かっている。組織が動揺したらこうも順調にはいかないだろう。
つまり、山南さんの死は、新選組の在り方に抗うどころか、土方さんたちが望んだ組織の拡大に拍車をかける結果をもたらしたことになるのだ。
これは偶然なのか、それとも必然なのか...?

人の世は、見えるものが真実であるとは限らない。気持ちと言葉が裏腹だったり、敢えて隠す事実もある。
無論、本当のことは、本人たちだけが知ることである。
(→「組!!」編もあります

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